マスオさん生活も悪くない?
水車に例えると、好奇心という源泉から湧き出て流れる水の力によって、思考力と実現力という2つの水車が動き出すイメージ。勉強法の知識を得てもうまくいかないことがあるのは、好奇心という不断に流れる水の力が不足していたか、思考力や実現力という水車の仕組みに欠陥があるからだ。
これまでの時代は、学校や塾、職場が準備してくれた、教育という電力が自動的に送り込まれ、何も考えないままスイッチ一つで電気機器が動いてくれた。しかし、外部から送られる電力が一度止まってしまうと、停止状態に陥り、何も出来なくなってしまう。学びがそこでストップしてしまう。
これからの時代は、自ら湧き出る泉と水力の力で、いつでも、どこでも、どんな内容でも自ら学び、自家発電する力を持たなければならない。(一生伸び続ける人の学び方/本山勝寛)
これからは家庭で出世する時代
平和の為の努力
大人
「生きづらさ」の理解
義務と責任
人は誰でも幸せになりたい。そのためにも「自由」と「権利」を所有することは絶対条件である。この二つの言葉はあまり善いイメージがないかもしれない。完全な自由を得るためには責任を、完全な権利を得るためには義務を果たさねばならないからである、がその義務と責任を教えないばかりに個人の自由と権利ばかりを主張する世の中になってしまった。ちなみに自由の対義語は束縛(統制)であり、権利の対義語は義務である。「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず」という言葉のように、完全な自由を得るためには全く対極である束縛を極める。完全な権利を得るためには全く対極な義務を極めることが重要である。陽と陰(光と影)といった全く異なる2つが一つになるところでこそ互いを本当の意味で知ることができる。互いの価値を発揮することができる。
私たち人間にも全く異なるところがある。心と体、そして男と女、である。それはつまり完全な自由を願う「心」と様々なルールに従って生きる(ねばならない)体、そして父親としての役割を持つ「男性」と、子を産み母親としての役割を持つ「女性」である。心は目に見えないが体は目に見えること自体すでに大きな違いである。私たちは、自分と対極の存在を嫌うところがあるが、実は私の中に全く異なる存在があり、関係し合って私たちが存在しているという原理があることを私たちは悟っていない。
昨今の世の中の風潮として「権利」を主張するが「義務と責任」を教えない。自分で決定・選択することを教えるが、人間としての正道を教えない。原理を教え、原理通りに生きる義務と責任を教育せねばならない。
朝活は本当に良いのか?
私は以前から「朝活」に注目している。というかこれこそ本来人間の生活習慣ではないか、とさえ思うのである。
私が朝活に興味を持つようになったのは子供ができてから。家庭を持ってさらに子供ができると、自分の時間がなかなか確保できないのが現実(^_^;) 自分の時間を持とうとするとどうしても夜遅くなっていた。それはそれで良かったのだが子供が簡単に寝てくれない場合もあるし、実際夜は疲れていて集中できないことも多い。つまり効率が悪い。だったらいっそのこと子供と一緒に寝よう。と思ったのだ。その方が早寝早起きで健康にも良いだろうし、夏は朝涼しく、メール・ラインも来ないのでゆっくりと時間を確保できる。
マルバツ哲学という内容がある。一か月を31日だとすると何個「マル」がつくか。マルが勝ち越すかバツが勝ち越すのか、しばらくは自分との戦いだ。
以前、朝3時に起床して四国カルストに家族で行った。車も少ない、涼しい、子供も寝ている。いつもの感覚だともうお昼くらい、の感覚がまだ朝9時くらいだったりする。夕方頃に急激な眠気に襲われたが、おそらくそれもそのうち慣れるのだろう。今のところ朝活はメリットの方が多い、というのが私の感想である。とにかく続けてみて、またレポートしたいと思う。
新しいぶどう酒は新しい革袋へ
戦後70年を迎え、安保法制に対する賛否の声が絶え間なく続いている。本質的議論が公にはほとんどなされない中、ただ若者が戦争に行くことになるなどの批判の声が連日SNSやマスメディアから発信されている。
私は専門家ではないので詳しい専門的知識に乏しいが、日本として、アジア・世界としてどこに向かって行きたいのかという「人類共通のビジョン・ゴール」が疎通し、共有されていないことだけは明らかである。そのような議論がもっとあってしかるべきなのに不思議なくらいこの本質的で当たり前の内容に触れようとしない、もしくは全くピントが合っていない者が少なくないのである。
だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」。(マルコによる福音書2:21~)
以前、固定観念について記事を書いた。
「私」は観念(思い込み)を真実だと信じる傾向がある。だから人間の価値観や考え方を変えることはもの凄く大変なのである。私が絶対的に正しいと信じているものが、実は思い込みであって本心が願わない思い込みである、といったこともあるわけである。
新しいぶどう酒とは新しい(真の)思想・価値観(考え方)であり、それを真に受け入れるためには私自身が新しい(真の)革袋にならねばならない。そのためには今の自分が偽りである(つまり変わらないといけない私である)という自覚が必要である。