家庭人学

原理原則を実践するからこそ、強くて健康で美しい家庭を所有する家庭人が、この世界に溢れて、あらゆる分野の責任者となっていく。それが世界平和への最短の道であることを確信しています。だからこそ、家庭人の為の人間学、『家庭人学』を今、発信しています。 ブログでは音声配信の台本であるツイッターをまとめています。

マスオさん生活も悪くない?

妻の義父母と同居するため、福岡に引っ越してもうすぐで一年になる。本当に月日が経つのは早い。世の中でも、最近は妻の両親との近居・同居が夫の両親とのそれよりも増えているとのこと。「同居は大変でしょ?」とよく言われる。「俺は絶対無理」とか「気疲れしそう」など大変なイメージの方が強いようだ。「論より証拠」ということで、実際にマスオさん的生活をしてみて感じたことをいくつか共有したい。
 
常時子供に接触できる人材を確保できる
子供にとってみたら、私と妻と義父母の四人の誰かと、常に接していることになる。大家族で発信される情報量は半端ない。例えば絵本の読み聞かせ方一つでも、私や妻は絵本の字をそのまま読まずアドリブで読んだりするときもあるが、お母さんは絵本の字に忠実に読む。以前仕事から帰って来て妻と当時2歳の息子が遊ぶブロックを見たら1.2.3…の数字の形になっていてこんな遊び方もあるのかと、妻のアイデアに驚いた。お父さん(じいじ)は器用な人なので子供たちのご飯を作ってくれたりおもちゃを作ってくれたりしてくれる。ザリガニ釣りに朝早く連れて行ってくれたり、下の息子のベッドを衣装ケースを利用して作ってくれたりもした。子供の衛生面など細かいところによく気がつくのはお母さん(ばあば)である。科学的に見れば常に脳に刺激を与え続けることで脳のシナプスが増える。三世代同居は育脳においてとても良いことだと実感する。どんなに頑張っても一人の人間が発信できる情報量には限界がある。仕事でもそうだが、今は一人の能力ある人間が引っ張っていくカリスマの時代ではなく、各人の個性を引き出せるチームワークを主導できる指導者、家庭なら夫や妻がその役割を果たすことがとても重要な気がする。
「仕事や家事や育児で悲鳴をあげているのは核家族である」との声もあるが、たしかにその傾向はあるのかもしれない。あきらかに人材不足で一人がいくつもの役割を兼任し悲鳴をあげている組織は、新しいものを創造していく余裕など無い。現状維持がやっとである。家庭も一つの組織であると見るなら、三世代同居という本来の在り方でなければ子育てが夫や妻だけの重労働とならざるを得ない。
 
子育ては己育て
子は親の言うことに似るのではなく、親のやることに似る。実体が問われることになるから、「子育てはまさに己育て」だ。夫婦の会話や私と義父母との関係など、子供は「個人」以上に「連体」としての私達、つまり夫婦、夫と義父母との関係や妻と両親との関係を本当によく見ている。乾いたスポンジのように良いも悪いもどんどん吸収していく。
 人の成長を考えたときに、自分の中から湧き出てくる源泉、好奇心こそが、最も重要ではないかと私は考えている。

 水車に例えると、好奇心という源泉から湧き出て流れる水の力によって、思考力と実現力という2つの水車が動き出すイメージ。勉強法の知識を得てもうまくいかないことがあるのは、好奇心という不断に流れる水の力が不足していたか、思考力や実現力という水車の仕組みに欠陥があるからだ。

これまでの時代は、学校や塾、職場が準備してくれた、教育という電力が自動的に送り込まれ、何も考えないままスイッチ一つで電気機器が動いてくれた。しかし、外部から送られる電力が一度止まってしまうと、停止状態に陥り、何も出来なくなってしまう。学びがそこでストップしてしまう。

これからの時代は、自ら湧き出る泉と水力の力で、いつでも、どこでも、どんな内容でも自ら学び、自家発電する力を持たなければならない。(一生伸び続ける人の学び方/本山勝寛)

親である私自身が「子育てに対して湧き出流る好奇心、ビジョンがあるのか❓」が問われていると感じる。
 

これからは家庭で出世する時代

大家族と言えども、大家族組織を舵取りするのは「夫婦」である。夫婦が、心身の調和した一人の人間のように一つに成り、家庭を正しく導いて行くことが、幸せの原則である。どんなに出世して地位や名誉を手に入れた男性でも、女性がいなければ「半分」。その逆も然り。それは幸せの深さ、味、量も半分迄しか手に入れることが出来ないということ。
妻と私はタイプが全然違う。電車の中では限られた時間をいかに有効に活用できるか、と考え本を読んだりブログ作成をする、眠くなったときこそ筋トレをする。お風呂の中では毎日3分瞑想をする、など変にストイックなところが、妻からしたら理解しがたいのだと思う(^_^;) 妻は、感情表現が豊かであり、物事を説明するプレゼン力が凄い。そして阿部サダヲのだいふぁんなどなど、なんて言ったら良いのか…とにかく私に無いもの、私が持った方が良いものを沢山持っている。
「違う」から喧嘩をしたり別れたりする話は世の中にはいくらでもある。しかし、「違う」からこそ一つに成ると、凄い力を発揮し、良い結果を生み出すことを私は何度も経験してきた。私一人では不可能なことも妻とならなんでも出来る、と思えるのは、「違う」から。一度しかない人生、どんなに難しくても、互いの違いを受け入れることで、互いが一番輝けるなら、私はその道を選び続けるだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

平和の為の努力

PEACE ROAD 2016九州大会に参加しました☆
「東アジアの平和と南北統一」と題して、洪良浩先生(元統一部次官)の講話でした。西谷正先生(九州大学名誉教授)、嶋村初吉先生(日韓歴史交流会代表)の挨拶も印象的でした。 チケットをくれたYさん、ありがとうございました(^^)
 
普段は仕事に家庭にと、忙しくて世の中の問題になかなか意識がいきません。しかしよく考えてみると、幸せな家庭を築き、仕事で成功しようと努力するのも、偏に世の中の問題を解決するためだ、と思うと私としては納得がいきます。東アジアの平和も南北統一も普段の会話でもっと話されるべき重要な内容…。
 
子供から『平和って何?』って聞かれたら『一つになること』って私は答える。心身が矛盾なく一つに成った人が夫婦と成り家庭を築く。そんな家庭が増えたら世の中は確実に良くなる。
 
心身統一、夫婦統一が東アジアと南北統一の跳躍台になると確信しています。まさに『私が変われば世界が変わる』ってこと。『平和の為の努力』、これが今回の講話テーマだったと思います。ドイツ統一がヨーロッパ統一の跳躍台となった。相互に作用した良い結果。第一次、二次世界対戦の戦犯国家であるドイツは被害を与えた国々に対して真摯に謝罪をして和解に努めました。
 
東アジアの統一が難しいのは、自分の国の覇権を得ようとする思いが強いから。『一人が100歩より、100人が一歩』。一国でも一人でも多くの人が一つになる為の継続的努力をしていくならば必ず平和統一は成される。現に日韓中の協議機構が出来ており、東ア繁栄の為の努力をしています。
 
『分断』とは、苦痛を受けている人がいる、ということ。その事を忘れず、まずは私自身の分断を解決せねば。

大人

私の職場は障害のある方の就労支援をするところのなので、様々な大学から実習のため多くの学生がやってくる。彼らを見ていると二つのことが思い浮かんできた。若者は「未来に対してビジョンを描きやすい立場」であること、そして「素直な心を小さくする障害がまだ少ない」ということ。

若者はいろんなことを経験できる機会が沢山あるし、夢や目標を持ちやすいと言える。しかし、大人になると、仕事や家庭のことで忙しく、やりたくてもやれないことが増えてくる。遠い理想よりも目の前の現実に集中しやすい。

大人になると、様々な経験をするから良くも悪くも自分の経験則で物事を判断するようになってくる。ときにそれが障害となり「本当はその人の成長にとって受け入れた方がよい言葉」を素直に受け入れることが出来なくなる。

「大人」は「大きい人」であるとも言える。人間には目に見えない心と、目に見える体がある。だから大人とは本来、体だけでなく心もある程度大きくなってこそ「大人」と言える。

相変わらずおかしな事件が後を絶たない。その原因は心が大人になっていない大人が多いからだ。心を正しく大きくする教育システムが最も緊要な課題である。

「生きづらさ」の理解

福祉の仕事について3ヶ月が過ぎた。精神障害のある方の就労支援をする仕事である。私の家族も障害者であり、私自身も心身が不安定となり長く苦しんだ経験がある。「生きづらい」。親から直接聞いたわけではないが、これが障害のある方々の心の叫びではないだろうか。

この「生きづらさ」を理解してもらうことがどれ程難しいことか…

私達は自分の経験則で物事を判断する。当然経験があるからこそ自信を持って物事を判断することができる。しかし、ときにそれが相手を真に理解することへの「障害」となってしまうのである。

人を裁く為に自分の経験を用いるのではなく、相手の幸せや発展の為に、自分に何ができるかを考え、行動するならば、私こそが人を純粋に愛することができない、真に理解し受け入れることができない「愛の障害者」であることに気づくだろう。

義務と責任

人は誰でも幸せになりたい。そのためにも「自由」と「権利」を所有することは絶対条件である。この二つの言葉はあまり善いイメージがないかもしれない。完全な自由を得るためには責任を、完全な権利を得るためには義務を果たさねばならないからである、がその義務と責任を教えないばかりに個人の自由と権利ばかりを主張する世の中になってしまった。ちなみに自由の対義語は束縛(統制)であり、権利の対義語は義務である。「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず」という言葉のように、完全な自由を得るためには全く対極である束縛を極める。完全な権利を得るためには全く対極な義務を極めることが重要である。陽と陰(光と影)といった全く異なる2つが一つになるところでこそ互いを本当の意味で知ることができる。互いの価値を発揮することができる。

私たち人間にも全く異なるところがある。心と体、そして男と女、である。それはつまり完全な自由を願う「心」と様々なルールに従って生きる(ねばならない)体、そして父親としての役割を持つ「男性」と、子を産み母親としての役割を持つ「女性」である。心は目に見えないが体は目に見えること自体すでに大きな違いである。私たちは、自分と対極の存在を嫌うところがあるが、実は私の中に全く異なる存在があり、関係し合って私たちが存在しているという原理があることを私たちは悟っていない。

昨今の世の中の風潮として「権利」を主張するが「義務と責任」を教えない。自分で決定・選択することを教えるが、人間としての正道を教えない。原理を教え、原理通りに生きる義務と責任を教育せねばならない。

 

 

朝活は本当に良いのか?

私は以前から「朝活」に注目している。というかこれこそ本来人間の生活習慣ではないか、とさえ思うのである。

私が朝活に興味を持つようになったのは子供ができてから。家庭を持ってさらに子供ができると、自分の時間がなかなか確保できないのが現実(^_^;) 自分の時間を持とうとするとどうしても夜遅くなっていた。それはそれで良かったのだが子供が簡単に寝てくれない場合もあるし、実際夜は疲れていて集中できないことも多い。つまり効率が悪い。だったらいっそのこと子供と一緒に寝よう。と思ったのだ。その方が早寝早起きで健康にも良いだろうし、夏は朝涼しく、メール・ラインも来ないのでゆっくりと時間を確保できる。

マルバツ哲学という内容がある。一か月を31日だとすると何個「マル」がつくか。マルが勝ち越すかバツが勝ち越すのか、しばらくは自分との戦いだ。

以前、朝3時に起床して四国カルストに家族で行った。車も少ない、涼しい、子供も寝ている。いつもの感覚だともうお昼くらい、の感覚がまだ朝9時くらいだったりする。夕方頃に急激な眠気に襲われたが、おそらくそれもそのうち慣れるのだろう。今のところ朝活はメリットの方が多い、というのが私の感想である。とにかく続けてみて、またレポートしたいと思う。

 

 

 

新しいぶどう酒は新しい革袋へ

戦後70年を迎え、安保法制に対する賛否の声が絶え間なく続いている。本質的議論が公にはほとんどなされない中、ただ若者が戦争に行くことになるなどの批判の声が連日SNSやマスメディアから発信されている。

私は専門家ではないので詳しい専門的知識に乏しいが、日本として、アジア・世界としてどこに向かって行きたいのかという「人類共通のビジョン・ゴール」が疎通し、共有されていないことだけは明らかである。そのような議論がもっとあってしかるべきなのに不思議なくらいこの本質的で当たり前の内容に触れようとしない、もしくは全くピントが合っていない者が少なくないのである。

だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」。(マルコによる福音書2:21~)

 以前、固定観念について記事を書いた。

「私」は観念(思い込み)を真実だと信じる傾向がある。だから人間の価値観や考え方を変えることはもの凄く大変なのである。私が絶対的に正しいと信じているものが、実は思い込みであって本心が願わない思い込みである、といったこともあるわけである。

新しいぶどう酒とは新しい(真の)思想・価値観(考え方)であり、それを真に受け入れるためには私自身が新しい(真の)革袋にならねばならない。そのためには今の自分が偽りである(つまり変わらないといけない私である)という自覚が必要である。