家庭人学

原理原則を実践するからこそ、強くて健康で美しい家庭を所有する家庭人が、この世界に溢れて、あらゆる分野の責任者となっていく。それが世界平和への最短の道であることを確信しています。だからこそ、家庭人の為の人間学、『家庭人学』を今、発信しています。 ブログでは音声配信の台本であるツイッターをまとめています。

大人

私の職場は障害のある方の就労支援をするところのなので、様々な大学から実習のため多くの学生がやってくる。彼らを見ていると二つのことが思い浮かんできた。若者は「未来に対してビジョンを描きやすい立場」であること、そして「素直な心を小さくする障害がまだ少ない」ということ。

若者はいろんなことを経験できる機会が沢山あるし、夢や目標を持ちやすいと言える。しかし、大人になると、仕事や家庭のことで忙しく、やりたくてもやれないことが増えてくる。遠い理想よりも目の前の現実に集中しやすい。

大人になると、様々な経験をするから良くも悪くも自分の経験則で物事を判断するようになってくる。ときにそれが障害となり「本当はその人の成長にとって受け入れた方がよい言葉」を素直に受け入れることが出来なくなる。

「大人」は「大きい人」であるとも言える。人間には目に見えない心と、目に見える体がある。だから大人とは本来、体だけでなく心もある程度大きくなってこそ「大人」と言える。

相変わらずおかしな事件が後を絶たない。その原因は心が大人になっていない大人が多いからだ。心を正しく大きくする教育システムが最も緊要な課題である。

「生きづらさ」の理解

福祉の仕事について3ヶ月が過ぎた。精神障害のある方の就労支援をする仕事である。私の家族も障害者であり、私自身も心身が不安定となり長く苦しんだ経験がある。「生きづらい」。親から直接聞いたわけではないが、これが障害のある方々の心の叫びではないだろうか。

この「生きづらさ」を理解してもらうことがどれ程難しいことか…

私達は自分の経験則で物事を判断する。当然経験があるからこそ自信を持って物事を判断することができる。しかし、ときにそれが相手を真に理解することへの「障害」となってしまうのである。

人を裁く為に自分の経験を用いるのではなく、相手の幸せや発展の為に、自分に何ができるかを考え、行動するならば、私こそが人を純粋に愛することができない、真に理解し受け入れることができない「愛の障害者」であることに気づくだろう。

義務と責任

人は誰でも幸せになりたい。そのためにも「自由」と「権利」を所有することは絶対条件である。この二つの言葉はあまり善いイメージがないかもしれない。完全な自由を得るためには責任を、完全な権利を得るためには義務を果たさねばならないからである、がその義務と責任を教えないばかりに個人の自由と権利ばかりを主張する世の中になってしまった。ちなみに自由の対義語は束縛(統制)であり、権利の対義語は義務である。「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず」という言葉のように、完全な自由を得るためには全く対極である束縛を極める。完全な権利を得るためには全く対極な義務を極めることが重要である。陽と陰(光と影)といった全く異なる2つが一つになるところでこそ互いを本当の意味で知ることができる。互いの価値を発揮することができる。

私たち人間にも全く異なるところがある。心と体、そして男と女、である。それはつまり完全な自由を願う「心」と様々なルールに従って生きる(ねばならない)体、そして父親としての役割を持つ「男性」と、子を産み母親としての役割を持つ「女性」である。心は目に見えないが体は目に見えること自体すでに大きな違いである。私たちは、自分と対極の存在を嫌うところがあるが、実は私の中に全く異なる存在があり、関係し合って私たちが存在しているという原理があることを私たちは悟っていない。

昨今の世の中の風潮として「権利」を主張するが「義務と責任」を教えない。自分で決定・選択することを教えるが、人間としての正道を教えない。原理を教え、原理通りに生きる義務と責任を教育せねばならない。

 

 

朝活は本当に良いのか?

私は以前から「朝活」に注目している。というかこれこそ本来人間の生活習慣ではないか、とさえ思うのである。

私が朝活に興味を持つようになったのは子供ができてから。家庭を持ってさらに子供ができると、自分の時間がなかなか確保できないのが現実(^_^;) 自分の時間を持とうとするとどうしても夜遅くなっていた。それはそれで良かったのだが子供が簡単に寝てくれない場合もあるし、実際夜は疲れていて集中できないことも多い。つまり効率が悪い。だったらいっそのこと子供と一緒に寝よう。と思ったのだ。その方が早寝早起きで健康にも良いだろうし、夏は朝涼しく、メール・ラインも来ないのでゆっくりと時間を確保できる。

マルバツ哲学という内容がある。一か月を31日だとすると何個「マル」がつくか。マルが勝ち越すかバツが勝ち越すのか、しばらくは自分との戦いだ。

以前、朝3時に起床して四国カルストに家族で行った。車も少ない、涼しい、子供も寝ている。いつもの感覚だともうお昼くらい、の感覚がまだ朝9時くらいだったりする。夕方頃に急激な眠気に襲われたが、おそらくそれもそのうち慣れるのだろう。今のところ朝活はメリットの方が多い、というのが私の感想である。とにかく続けてみて、またレポートしたいと思う。

 

 

 

新しいぶどう酒は新しい革袋へ

戦後70年を迎え、安保法制に対する賛否の声が絶え間なく続いている。本質的議論が公にはほとんどなされない中、ただ若者が戦争に行くことになるなどの批判の声が連日SNSやマスメディアから発信されている。

私は専門家ではないので詳しい専門的知識に乏しいが、日本として、アジア・世界としてどこに向かって行きたいのかという「人類共通のビジョン・ゴール」が疎通し、共有されていないことだけは明らかである。そのような議論がもっとあってしかるべきなのに不思議なくらいこの本質的で当たり前の内容に触れようとしない、もしくは全くピントが合っていない者が少なくないのである。

だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」。(マルコによる福音書2:21~)

 以前、固定観念について記事を書いた。

「私」は観念(思い込み)を真実だと信じる傾向がある。だから人間の価値観や考え方を変えることはもの凄く大変なのである。私が絶対的に正しいと信じているものが、実は思い込みであって本心が願わない思い込みである、といったこともあるわけである。

新しいぶどう酒とは新しい(真の)思想・価値観(考え方)であり、それを真に受け入れるためには私自身が新しい(真の)革袋にならねばならない。そのためには今の自分が偽りである(つまり変わらないといけない私である)という自覚が必要である。

 

 

 

 

 

 

 

信じる力

若いときには買ってでも訓練をたくさん受ける必要がある。10代、20代にどのような訓練を受けたかが、30代、40代になって確実に出てくる。天は私を愛している。この確信を所有しなければならない。しかしながら、そのような確信を所有することは容易ではない。「所有」とは「自分のものにする」という意味がある。私たちはすでに多くの観念(思い込み)を良くない意味で所有してしまっている。観念(思い込み)とはなにか? 言葉に想念(考え・思い・イメージ)が付着して、観念(思い込み)となる。ちなみに思い込みとは、固く心に決めることである。例えば、「平和」という言葉がある。昨今、安保法制論議が絶え間なく続いているが、これは「平和」に対する考え方が人によって違うことが1つの大きな問題である。平和とは戦争がない状態である。平和とは絆のある世界である…。 「私」は観念(思い込み)を真実だと信じる傾向がある。だから人間の価値観や考え方を変えることはもの凄く大変(^^; 絶対的に正しいと信じているものが、実は思い込みであったということもあるわけである。

 ではどうすれば固定観点を変えることができるのだろうか? 
 
①私を再創造(変えたい)という意欲
②自己の限界に挑戦する心
である。
「信じる力」と「素直さ」を持った人が一番成長する。